何もかもが嫌になる時

 

原因不明であるが、時々、何もかもが嫌になってしまって生きることを投げ出したくなってしまう瞬間がある。すごく久々にその感覚に襲われた。きっかけは昼寝をしたときに見た夢。大学4年生の時の夢。研究室に行かない日々を過ごし、友達から卒研と就職を心配された夢だった。もう一度、同じ道をたどりたいか。ふと、頭をよぎった自分への質問だった。同じ経験を二度は辛いかもしれない。どちらかというと違う道へそれてしまいたい。そう思った。私はこれから作っていく道を、通り過ぎた後振り返ってどう思うようになるのだろうか。自分がやってきたこと、経験したことに対して二度と経験したくないと思うようなことが起きるのだろうか。未来が不安になった。

 

調子が良くないとき、考えてしまう。やりたくない仕事を長時間やって何が楽しいのだろうか、と。客観的に、社会的に見たとき、私は仕事に恵まれているのかもしれない。社会的に見た自分と、自分の内側から見た自分はギャップが大きい。職場は周りの人に恵まれ良い環境だとは思う。しかし、仕事の達成感が薄く、給料はちゃんともらっているのにも関わらず満足できない自分がいる。ずっとここで同じことを繰り返すのかと、気が重くなって何もかもが嫌になってしまう。

 

多分、疲れているのだろう。頭をフル回転させながら日中の業務を回し、終業後にやっと自分の書類関係の仕事に取り組める。思い返せば、そんな日々が続いていた。気が付けば部屋には物が散乱し荒れていた。こんな時こそ、少し落ち着いて自分の気持ちや体調に耳を傾ける。何が不満だったのか、どうしたいのか、どんな休み方をしたらいいのか。。。

まだ、未来への不安は消えないけれど、自暴自棄になることだけは回避できたような気がする。

夢と現実の狭間

 

自己啓発類の本を読むことが多々ある。よく書かれている内容として、失敗を恐れずやりたいことをやろう!人生は一度きりだと書かれているものがあげられる。やりたいことをやって生きていける人生は確かに素敵だと思う。やりたいことでお金をもらって生活して時々旅行なんかに行ってみたりして。誰もが憧れるが、現実は特にやりたいわけでもない仕事を生活のために週5で8時間、計40時間+αを費やしている。それによって疲れてしまい、やりたことどころではなくなってしまう人も多々いる。私も、生活のために仕事をしている。仕事が好きなわけではない。

 

私が欲しいものは『自由』だ。ある程度の自由のためには、お金が必要なのも事実だ。

仮にやりたいことをやるために仕事を辞めたとする。私の生活には見えないところでもお金がかかっている。年金、保険、所得税、住民税、生きているだけでお金がかかる。これらを支払うためにはバイトなどをしてそこそこの額を稼がなければならない。そう考えると、仕事を辞めたとしても時間を少なからず犠牲にしなければならない。下手をすると、今の通り仕事をしている方がうまく時間を算出できるのかもしれない。

時間の自由を欲しているのに、結果として時間の自由度は変わらず、お金の自由度を下げる結果になってしまう可能性もある。

 

夢もやりたいこともある。本の中の人は、勇気をもって変化することを勧めてくる。夢にまっすぐに生きている友人も、何とかなるよ、やりたいことをやらないなんてもったいないよと教えてくれる。その考えもすごくよくわかる。人生は一度しかなくて、今が一番若い瞬間だから、動けるのは今のうちだといわんばかりに後押しされる。

でも、ひとつだけ、動けない人間だってたくさんいる。大きな変化なんて怖いのは人間の本能として当たり前の感情だ。現実から夢は近いようで遠い。(できる人は)いきなりの変化がある人生も良いが、今の状態を保ちながら、少しずつ少しずつ夢を手繰り寄せる生き方も悪くはない生き方だと思う。

『無』になる時間を持とう。。。

 

連日寒さのせいで、気持ちの調子が良くないと思っていると、ある時ひょっこり治ってしまうことがある。今日のような日。仕事も普通に、いや忙しい中をこなし残業もしてから帰宅した。今までふさぎ込んでいた分、やりたいことがありすぎて夜であるにも関わらず頭が元気いっぱいだ。この状態のときにあれもこれもと手を出してしまうと後からガクッと下がってしまって立ち直れなかったりする。パターンが読めてきている今日この頃、私に必要なのは『無』になる時間を持つこと。

 

色んな本で読んだ。『無』になること、ぼーっとするということは、脳にとって『デフォルト・モード・ネットワーク(DMN)』と呼ばれる状態で、脳の中をすっきり整理整頓してくれる状態らしい。忙しい日々を過ごしている中に、この時間をうまく取り入れることで、脳の飽和状態、疲労困憊状態を回避できる。最近では、『マインドフルネス』が脳をこの状態にする良い方法とされている。”今、ここ”に集中すること。やってはみるが、なかなかマスターできない。できなくてもやる姿勢が大切らしい。今日もやってはみるが寝落ちだろう。心地よい夢が見れれば、それはそれで結果オーライだ。

 

『無』になる時間を持てるようになれば、気分の波の変動もきっと小さくなると信じて、『無』を目指そうとする。

頭の中が元気だから休めなければと思いつつ、寝る時間が近いのにも関わらず今日も文章を書いている。やりたいことや気持ちのコントロールは難しいと思いつつ、やっぱり文章を書くことが好きなのだと、少しうれしくなってしまった💌

そんな朝だったら好きかもしれない

 

休日ではあるが、7時半に起きた。私は冬の朝、布団から出ることが嫌いだ。結婚したいくらい好きなお布団から這い出て寒い中身支度を整えて、しょうがなく出勤しないといけないからだ。会社員の宿命だ。今日は一つ変えてみた。エアコンだけでなく、電気ストーブもつけて部屋を暖めてみた。若干はもぞもぞしたが、起きることができた。三連休毎日快晴だ。

 

今日は休みだから、出勤の準備をする必要はない。

”好きなことをしよう”

ココアを入れてぼーっと流し込む。ピアノの練習をずっとしたかったのにできないでいたことに気づいてピアノを練習した。電子ピアノなのでヘッドフォンを付けて近所迷惑にならないようにして練習する。朝日が差し込む部屋で好きなピアノを弾いていたら心地よかった。毎日、朝は慌ただしく過ぎていく。本を読むこと、本の感想を書き込むこと、ピアノを弾くこと、好きなことにゆっくり時間をさける朝だったら朝が好きになるかもしれない。

 

心の調子が良くない時期に、生きる意味はなんだろうかと考えたことがあった。もちろん、正しい答えなんてなくて、一人ひとり答えが違う。子供の方がよっぽどいい答えを出せたりもする。

今日、なんとなく思った。

いい時間だと感じられる時が生きている中で意味のあるものなのかもしれない。意味のあるものが蓄積すれば、それは立派な生きる意味になるのではないだろうか。多分、私が答えにたどり着けるのは40年以上先の話だ。

 

自分のペースで生きる

 

だいたい連休明けにやってくる。もう、私は自分のリズムも読めてきている。

年末年始の連休後、仕事に行くのは辛い。誰もがある程度辛いことだろう。

私も仕事に出ていくのは辛いタイプの人間だ。

勝手に名前を付けるとすると、『連休明けうつ』。GW後だと『五月病』とほぼ同義なのかもしれない。

今回も気持ちの落ち込みがひどかった。未だに少し引きずっている。唯一の救いは、調子が悪くなることを見越して平日に一日有給休暇を入れておいたことだ。

 

この状態に陥ってしまうとどうも″普通”のお休みは過ごせない。天気は快晴なのに外に出ることもできない、布団の中で寝転がってYouTubeをみる、本を読む。それらのことすら面倒に思えて、全てが面倒になって散らかりきった部屋を放置して横になっていることしかできない。今回に関して言えば、できないのではなく、何もかもやるのが嫌で行動を拒否していた。今の私に、”普通”の休日を過ごす必要はあるのだろうか。今、わかることは無理だけはさせてはだめだということ。周りの同年代の友達は“普通”に買い物に行ったり、ドライブに行ったり、アウトドアを楽しむらしい(感染対策をしながら、3密は避けながら)。周りの”普通”は私の”普通”ではない。合わせていたらきっと日常を過ごすのがもっと億劫になってしまう。アウトドアを楽しむ友達を見て、うらやましくなる。でも、うらやましいからと言って自分のペースを崩すのは得策ではない。こんな状態ならなおさら。

 

外に出たいと思える時を待ちながら、自分のペースで休みを過ごそう。

 

気持ちの昇華(2)

 

カウンセラーの先生に、自分の膨らんだ気持ちに手が付けられなくなってしまったことを打ち明けた。先生に何かを話すとき私はどんな話でもすぐに泣いてしまう。先生は私の言葉、気持ちを引き出して整理してくれる。自分でもわかっていない自分の状態を私に教えてくれる。

先生にも言われた。「ただ、本当に好きなんだね。」と。それと同時に、私は自分の気持ちに必死で蓋をしているから苦しいのだということも教えられた。様々な理由の中、彼を好きでいる状態はつらいと認識して、必死に好きじゃなくなろうとしていたのだ。好きじゃないと思おうとする行為が気持ちに蓋をするということだったのだ。

 

気持ちは抑制すると反動でかえってくる。気持ちを感じたら、そのまま素直に「そうだね」と受け取ってあげる。慣れていない考え方で難しかった。

 

定期的に出てくる彼への好きだという思いを素直に受け止めるよう努めてみた。最初こそ難しく、思い出すたびに泣いていた。涙全部貯めたら何ℓ分になるのだろうかと思ってしまうくらい泣いた。徐々に思い出す回数は減り、涙の量も減っていった。それと同時に苦しさは軽減されて、気持ちはちゃんと時間に比例して小さくなっていった。

 

つい最近、ふっと気が付いた。そういえば、あんまり思い出さなくなったなと。

思い出したら、もちろん今でも好きだ。でも、苦しい感覚ではなく、、、ただただ素直に好きなんだな。それだけ。もしかしたら一生変わらずに好きなのかもしれないと、つくづく思ってしまう

気持ちの昇華(1)

 

今のところ、最初で最後。これまでにないくらい好きな人がいた。歳は少し離れていた、大人の男性で、私の目には素敵に映っていた。たぶん、ずっと片思いだった。私のことを好きなようなそうじゃないような。今思えば、適当に構われていただけなのかもしれない。そんな好きな人に会えなくなってからが数年がたった。彼のおかげで、初めて知ったことは無条件で人を好きになるということ。ダメだなと思ってしまうところでさえも、好きで仕方なかった。

 

一方的に気持ちを伝えてから離れることになった。正しい返事はもらえず、フラれることすらなかった。会うことができなくなってもその気持ちはずっと変わらなかった。自分を苦しめてしまうくらい気持ちを膨らませてしまった。

違う人を好きになれば忘れられる。

趣味に打ち込めば男なんて忘れられる。

時が解決してくれる。

調べれば対処方法はいくらでも出てきた。もちろん色々試してみた。次の男だ!!と意気込み自分のことを好きそうな男性と仲良くなってみた。元から気が多いタイプの自分は恋愛も進んですることができた。しかし、これが逆効果であった。人は好きになろうとしてなるものじゃない、好きになってしまうものだ。『~だから、好き』という考え方で誰かを好きになったとしても、大好きだった彼を超えることはできるはずがない。無条件に彼が好きだったから。彼のこと以上に誰かを好きになることはできないのではないだろうかと思ってしまい余計に気持ちが沈んでしまった。一人の人のことをずっと忘れられない、増大してしまっているのではないかとまで思うほど気持ちがパンパンに膨れ上がっていた。本当に辛かった。

自分ではどうしようもなくなってカウンセラーの先生に相談にいってみた。